夏の終わり。わずかな湿気と強い日差しが入り混じり、照り返しのまぶしさと乾いた波音が世界の輪郭をぼやかしていた。空は高く、白く光る雲がゆっくりと流れている。
そんな砂浜の端に、一人の男がしゃがみ込んでいた。
背中は丸く、帽子のつばで顔は見えない。手にしたスコップの柄は古く、鉄の先は赤く錆びついている。
彼は何度も、同じ個所を丁寧に掘り返していた。決して、速い作業とはいえない。ただ、まるでそこに埋蔵金でもあるかのような、無言の熱意がそこにある。
変わった人だな、と思った。物乞いか、ホームレスか――。
人目を惹けば、恵んでくれる人がいるとでも考えたのだろうか。あるいは、誰にも構われたくないのかもしれない。
一通り考えたあと視線を外して、目を閉じる。波音を聞きながら、パラソルの下でビーチチェアに寝そべるのは快適だ。
肌を撫でる風が、ほんのりと潮の香りを含んでいた。
僕の海の過ごし方は、きっと一緒に来ている友人の記憶にも残らない。誰かと交わることもなく、笑い声の波にも加わらず、ただ黙って世界の音を聴いていた。
そうして過ごす時間が退屈とも寂しいとも思わなくなって久しい。自分がこの世界の背景にいるだなんて思えなかった。
目が覚めると、夕日に照らされた海が淡い色へと姿を変えている。人々の視線は、そこに釘付けだった。
なんとなく、昼間に老人が砂を掘っていた辺りに視線をやった。まだ、彼はいた。影が長く伸び、波の届かぬ場所で、彼は孤独な作業を続けている。
(この老人は、僕にだけ見えているんだ)
その発想に、ぞわりとした興奮が混じる。世界に一人、自分だけが「奇妙」に触れたような、ささやかな優越感。
きっと、くだらない思い上がりだ。けれど、この瞬間、確かに僕は得意になっていた。
「おーい、行くぞ!」
友人の声に現実に引き戻され、僕は小さく肩をすくめた。手に持ったタオルで顔をぬぐい、砂浜に背を向ける。波音よりも近くに聞こえる音があった。乾いた笑い声が、夕暮れに溶けていく。
その夜、眠りは浅かった。
心地よい周波数の音楽でも、イルカの鳴くサウンドトラックでも、スコップの音は頭に響き続けた。
眠気はある。だが、彼の姿が脳裏に浮かび、僕を眠りから引き戻す。あれは大した意味のない行為のはずなのに、頭はそうではないとその憶測を拒む。
何かしら、もっともらしい意味を見出そうとするのだ。そうしなければ、自分の興味さえも肯定できなかった。
翌朝、初めて目覚ましが鳴るよりも前に目が覚めた。家具の輪郭だけがぼんやりと見える。重いまぶたを擦りながらカーテンを開けると、朝の光が差し込んできた。
やはり、僕が何かしら行動しない限り、この家の一日は始まらない。
近くのコンビニでサンドイッチでも買おうと、サンダルをはいた。早朝の、少しひんやりとした風が肌をくすぐる。
けれど、不意に、外に向く足を止めた。
「ジョギングでも始めるか……」
自分の独り言に、苦笑が漏れる。その言は、嘘ではない。けれど、本音でもない。本当の目的は一つ。
砂浜を見る。そして、昨日の老人が今日もいるか確かめたいだけだった。
そのために、いきなり立ち止まっても不自然ではない手段を考えたのだ。
着慣れないジャージに腕を通し、運動靴の紐をきつく結び直す。冷たい床に立ち、深呼吸を一つ。まだ眠っているような身体を引きずって、外に出た。
昨日と同じようでいて、なにかが違う気がした。自分の内側の感覚が、わずかに変わっていた。
外の空気はひんやりとしていて、肺の中まで静かに冷やしてくれる。アスファルトを踏むたびに、足裏にかすかな硬さが伝わってきた。
走ってすぐは、足が弾んだ。身体が目覚めていく感覚が気持ち良く、呼吸も整っているように思えた。
だが、それは長くは続かなかった。数分も経たないうちに息は荒れ、喉が焼けるように渇いた。
汗が額から流れ落ち、目元に溜まる。視界は滲み、足はどんどん重くなる。それでも、止まる気にはなれなかった。
――彼がいるかもしれない。
その思いだけが、背中を押していた。
海沿いに出る小道へと入った。海の音が近づき、風が海の匂いを運んできた瞬間、僕の足を支える力は尽きた。
こめかみに痛みが走り、水を一気に飲み干したが、喉の渇きは癒えなかった。無意識に海へ向かう足を抑える。海水は、体の塩分を奪うだけだ。
砂浜を見た――そこに彼は、いた。
昨日と同じ場所、同じ姿勢。スコップを動かし続ける老人の背中が、海の光に揺れていた。
動きは相変わらず緩慢で、所々にいる人々の世界と微妙にずれている。どこか、時間の流れから外れているようだった。自分の中の別の時計で動いているのかもしれない。
走ってきたはずなのに、胸の鼓動がゆっくりと落ち着いていくのを感じた。
今も動き続ける背中を見つめながら、胸の内側で何かがじわりと温かくなる。
安心なのか、興奮なのか、判断がつかなかった。
そのまま数分、じっと砂浜を見ていた。そして、また来ようと思った。
きっとそのとき僕は、「健康のため」だとか「生活のリズム」だとか、もっともらしいことを理由にしようとするのだろう。
だからといって、僕はコンビニ弁当生活を辞めるわけじゃない。
それは結局のところ、ごまかしにすぎないから。だが、その「ごまかし」が、案外日常を繋ぎとめてくれるのかもしれないと思った。
家に戻ると、そこに音はない。
間取りはワンルーム、必要最低限の家具と、誰かを迎え入れることのないソファ。親に仕送りをしてもらって始めた一人暮らしは、僕を刺激しない。
壁にかかった時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
大学へ行くのに、普段使うことのないバスを使った。無駄に余っていた小銭が減って、揺れるときに財布から鳴る音が小さくなった。
車窓の外には見慣れた街並みが広がっているのに、どこか遠く感じた。まるで別の季節に紛れ込んだような、違和感。
教室に入ると、友人が「おはよう」と言ってきた。僕も、同じ言葉を返す。「友人」とはいっても、特段仲がいいわけでもない。
何か話をされたら相槌を打ち、遊びに誘われたら行く。
この前の海も、その一環だった。
その後の講義は、ほとんど頭に入ってこなかった。教授の声が背景音楽のように遠ざかっていく。ノートをとる手は止まっていないが、黒板に書かれたものをただ書き取るだけだ。
食堂は早い者勝ちだった。人気のない定食を選ばされ、空いた席で一人、無言のまま箸を動かす。
自分の家にいても、教室にいても、食堂にいても。僕はどこにもいない気がしていた。
午後の講義は欠席することにした。
誰も気にしないだろうと思ったし、実際、誰からも反応はない。廊下を歩きながら、透明な自分に嫌気がさした。
構内のベンチに腰を下ろし、天を仰ぐ。高く、雲のない空が広がっていた。
老人の姿が、ふいに思い出される。スコップを握り、声もなく、ただ黙々と同じ場所を掘り続けるあの背中。
あれには、何かがある。不思議な、吸引力のようなものが。それに彼は今日もいた以上、あの行動には大きな理由があるはずだ。そうでなければ、一人きりで続けられるわけがない。
視界に、足が入る。たった数分のジョギングで筋肉痛になった自分の足だ。
講義の始まりを告げるチャイムが、遠くに響いた。自販機で、温かい缶コーヒーを買う。プルタブを開ける音が、おもったよりも大きく響いた。
驚く自分が、滑稽に思えた。
いつの間にか、朝に走ることは「生活」になっていた。身体は正直で、数日も経てば足の重さは薄れ、走り出すと呼吸も自然と整うようになった。
余裕が生まれると、景色にも目が向くようになった。緑から鮮やかな赤へと変わっていく木々が、真昼であっても僕を外へ連れ出す。
そんな自分の変化に気づく度、妙な安心感があった。
足音が耳に心地よく響く。いつも、同じリズムだ。
砂浜が視界に入ると、目は自然と、あの一点を探していた。
彼は、いた。例外という言葉が、もはや思い浮かばないほど。
同じ姿勢。膝を砂で汚して、スコップをゆっくり突き立て、砂を掬い、また掘る。
その背中に、もはや驚きはなかった。代わりに、日に日に募っていく安堵感があった。
僕の朝は、あの背中で始まる。彼がそこにいていくれることが、いつの間にか僕の日々を支える柱となっていたのだ。
僕は、思っていた以上に彼へ引き込まれているらしい。
「あれ、なにやってるんだろうな? ここ通ると毎回見るけど」
「さあ……構ってほしいんじゃね?」
声がした方を見ると、並んで歩く学生二人が、笑いながら海を指していた。
彼らの視線の先には、例の老人がいる。
少しだけ、腹が立った。しかし、言い返せなかった。
僕も、最初は同じようなことを考えていたから。
しかし、今の僕は違う。彼の背中が、ただそこにあるだけでいいと思っている。その行為に意味があるかどうかは、もはや問題ではない。
冷たい風が、頬に斜めから吹き付ける。指先がかじかむようになり、吐く息も白く変わった。
いつも通りの道を走っているはずなのに、身体の内側がどこか落ち着かない。
冬が、確かにそこまで来ていた。
この朝も、いつものように走り、小道を抜けて砂浜を見下ろす。けれど、そこには誰もいなかった。
彼が、いない。
走って温まった体が一瞬にして冷えるような感覚。
心臓の音が耳の奥で跳ね返る。目をこらして辺りを探すが、どこにも見当たらない。あれほど毎朝、同じ場所にいた背中が、今日は影も形もなかった。
砂浜は、ただ静かだった。
秋ならまだしも、冬にこんな場所に来る変わり者はまずいない。
風の音と、さざ波の音だけが、繰り返し耳を満たす。その音が、いつもよりも少しだけ寂しく聞こえた。
――いなくなった?
いや、たまたまどこかに行っただけかもしれない。寝坊したのかもしれない。何か理由があるはずだ。
そう思い直そうとすればするほど、不安の方が大きくなっていく。
数十分、砂浜を見下ろしたまま立ち尽くしていた。彼は現れない。
これまで終わりが見えなかったこの日課が、こんなにもあっけなく断ち切られるものなのか――。
そのことが、ひどく恐ろしく感じられた。
帰り道の足取りは、久しぶりに重かった。いつもは汗ばむほどの運動量が、今日は体の新まで冷やすだけだった。
コンビニで温かい飲み物を買い、両手で包むようにしながら、家へと戻った。
その夜は、なかなか寝付けなかった。波の音が耳に残るのではなく、あの「いなかった」景色ばかりが浮かぶ。
……翌朝。
正直、走る気は少しだけ失せていた。それでも、やめたら認めることになってしまう。彼の消失を。
冷え込みは、昨日よりもさらに厳しくなっていた。頬に当たる風が鋭く、世界の輪郭がよりくっきりしたように感じられる。
走りながら、心の中で小さく祈った。
どうか、いてくれ。
小道を抜け砂浜が見えるその瞬間視線が自然と彼の定位置へと吸い寄せられる。
――いた!
ただ、今日の彼は、長袖の厚手ジャケットを羽織っていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが音を立ててほぐれていくような感覚があった。まさか、彼が一日いないだけでこんなにも影響を受けるとは思っていなかった。
きっと、さすがの老人も寒さには勝てなかったのだろう。体を震わせる彼を想像すると、口元がほころんだ。
ある朝、僕は走り終えて、普段通りに砂浜が視界に入る角度へと踏み込んだ。
彼しかいない海の向こうに、陽が昇る。澄み切った空に手をかざしてみた。
ふと気が付くと、彼の手が止まっていた。――いや、違う。止まっていたのは、手だけじゃない。
顔を挙げていた。その視線が、僕を捕えている。
ほんの数秒だったかもしれない。けれど、僕にとっては異様に長く感じられた。
その視線には、怒りも疑いもなかった。ただ静かに、まっすぐに、僕の存在を確かめるように向けられていた。
体が硬直し、視線を逸らそうとしたが、できなかった。
波の音がすっと遠ざかり、耳の中が真空になったかのような感覚。体温が指先から抜けていく。何もしていないのに、背中に汗がにじんだ。
――僕は、みられていたのだ。
この数カ月ずっと「見る側」のつもりだったのに、気づけば僕の方が「見られる側」に代わっていた。
それを認識した瞬間、不思議と口角が上がっていた。
彼の表情は読めない。帽子の影と冬の朝日の逆行の中で、ただ目だけが、ゆっくりとこちらを見つめていた。
何らかの、重大な儀式のものを汚してしまったような過ちの感覚が、じわじわと体を支配していく。
僕は走り出した。特に息を切らすこともなく、家が見えた。そして、その近くにはコンビニが。
気づけば、レジ袋を手にして砂浜に戻っていた。
「これ……よかったらどうぞ。良いものでもないですけど」
初めて自分の足で、目で、声で、誰かに向けて動いたような気がする。それだけのことなのに、まるで全身に水が染み渡るような感覚があった。
これで何かが変わるわけでもない。けれど、ようやく僕は一歩、前進できた気がした。
彼はしばらく黙っていたが、やがてスコップを地面に置き、両手で袋を受け取った。
そのまま砂の上に腰を下ろし、中をそっと覗き込む。やがて、彼がつぶやいた。
「ありがとう」
ほとんど波にかき消されてしまうようなしわがれ声だった。けれど、僕の耳にははっきりと届いた。彼の口元が、わずかに緩んでいる。
僕は、腰かけるでもなく、立ったまましばらく海を見ていた。風の匂いと、波の音と、温かい弁当の香りが冬の朝に静かに溶けていく。
「すみません。昨日、覗くような真似をして」
夏に初めて見かけたときから、と言うのは憚られた。言ってしまえば、彼に余計な負担が増える気がした。
「ああ、いいんだよ。一年くらい、ほとんどここで過ごしてるんだ。いつかは起こることさ。むしろ、君みたいな、優しい青年でよかった」
「ずっと、ですか」
一度昼間に来たときにも老人はいて、変わらずスコップを持っていた。
さすがに日が落ちれば家に帰っていると思っていたが、まさかここで寝泊まりまでしているなんて。
「ここは思い出の場所でね。……昔、妻と何回か来たんだよ。ただ、家からは遠いんだ」
手元のスプーンを静かに置き、目を伏せて「ごちそうさま」と呟く。
実際、話してみていくつかの疑問は晴れた。対して、それ以上に深まった謎もある。
彼はできるだけ丁寧に話そうとしてくれている。そして、質問にも答えてくれる。
そんな人となりの人物が、どうしてこんなことをしているのだろうか。
「……何を探してるんですか」
言葉が出てすぐ、しまった、と思った、今まで踏み込まないようにしてきたのに、凡ミスだ。
老人は顎下の無精髭を触りながら、しばらく沈黙していた。
そして、突然言葉を紡いだ。
「……あの人はね、砂が好きだった。触れていると、どこかへ旅をしてるみたいって。バカな話だろう?」
彼は、波打ち際を見ながら小さく笑った。
「最後にここに来たとき、言ったんだ。『いつか、あの砂の下に想い出を埋めておこう』って。……それがね、忘れられないんだ」
僕は足元の砂を見つめた。細かく。軽く、乾いていて、波にさわられるたびに、少しずつ姿を変えていく。
そんなものの下に、今も残っているのだろうか。
「でも……もう、ここにはないんじゃないですかね」
それは、思わず口を突いて出た言葉だった。意見でも、慰めでもない。ただ、砂浜を見続けた僕なりの実感だった。
老人は、肩を小さく揺らした。笑ったのかもしれない。
しばらくして、小さな声でつぶやいた。
「ああ、そうだな。彼女はもう、いない。……前を向こう」
そう言った彼の声は、まるで自分自身に語りかけるようだった。
彼の視線が、水平線に向かっていた。
風が少し強くなった朝だった。走り出した瞬間、乾いた空気が鼻を突き、目を細める。耳の奥で、波の音が不規則に飛び跳ねていた。
身体はすっかり慣れている。
坂も、距離も、呼吸のリズムも。ジョギングはすでに、僕の一部になっていた。
しかし、今日は何かが違う。はっきりとは分からなかったが、背中のどこかがざわついていた。
砂浜が見える小道へ差し掛かったとき、それは確信に変わった。
――いない。
あの場所に、彼の姿がなかった。そこには、ただ潮の引いた跡が伸びているだけだ。
空は曇りがちで、朝日がまだ届かない雲の切れ間から、鈍い光がじわりと差し込んでくる。
鳥の鳴き声も聞こえない。
足を止めたまま、しばらく立ち尽くす。呼吸は整っているのに、胸の奥がざわついていた。
風が吹き、靴に当たった砂がぱちぱちと音を立てる。その静けさの中に、聞こえるはずのないスコップの音が、記憶の底から蘇る。
世界が、やけに静かだった。誰かの気配がひとつだけ欠けたことを、風も波も知っているかのように。
昨日まで彼がいた場所に、何かがあるのが見えた。
近づくと、それは丁寧に畳まれた服だった。裾のほつれを、指先で治すように整えられている。
その上に、一枚の紙が置かれていた。
ご飯、ありがとう。
小さな、けれどまっすぐな文字だった。
さらにその上に、封筒がおもし代わりのように置かれている。
中身を除いて、指がかすかにふるえた。言葉以上に彼の気持ちを伝えてくれている気がした。
海へ目を向ける。
波はどこまでも穏やかで、光の反射が眩しかった。
よく見ると、水平線の少し手前、ぷかぷかと何かが揺れていた。
ゆっくり、遠ざかっていく。それが何なのか、もう分からなかった。
風が吹き、紙の端がはらりと揺れた。丁寧に折りたたみ、ポケットにしまう。
静かな音とともに、突然心の中で一つの言葉が浮かんだ。
――これが、彼なりの「前進」なんだろうか。
答えは分からない。
けれど、そこに確かに“何か”があったことだけは、静かな世界に刻まれていた。
翌朝も、走った。走る理由も、向かう理由も曖昧なままに。
砂浜に着くと彼がいた場所へと立つ。風が冷たい。けれど、それはもう恐ろしいものではなかった。
僕はしゃがみ込み、砂に触れた。
ひんやりとした感触が、指先から静かに染みこんでくる。
ゆっくりと、手のひらで掬う。軽い音が、指の隙間からこぼれ落ちていく。
ただの砂だ。何千年と打ち寄せられ、削られてきた名もない粒の集まり。
でも、彼はこれを毎日見ていた。触れて、掘っていた。
その行為に、どんな想いが重なっていたのだろう。
掘るたびに過去を確かめていたのかもしれない。
あるいは、未来に触れようとしていたのかもしれない。
邪推になってしまうような気がして、それ以上考えるのを中断した。
理由もなく、自分の胸に手を当ててみる。なにも変わらない。それでも、何かがある気がした。
なにをしているのだろう。乾いた笑みがこぼれた。
誰にも知られず、誰にも笑われず。彼がそうしていたように、僕もこの朝に意味を刻みたかったのだ。
"なにか"を探しているわけではない。ただ、そうすることに意味があるような気がした。なにも見つからなくていい。ただ、自分のために掘っている。それだけでいい。
――それだけで、充分だった。
視線を上げる。朝の光が、静かに海を照らしていた。
そのとき、背中に風が吹いた。誰かの気配がした。
……振り返っても、誰も居ない。
ただ、波の音だけが、以前と変わらずそこにあった。
「誰か、見てくれるといいな」
声になっていたと、少し後になって気づいた。