【迷宮在住の野良スライム、ひょんなことから新米冒険者の胸ポケットにお引っ越しする事になる。───スライムに生まれ変わった元勇者の僕が可愛い女の子冒険者に拾われちゃった!?表で可愛がられ裏では無双する充実のスライム生活が始まる!───(その4)】

画像
頂いたファンアートです(ありがとうございます!)

 

 黒く巨大なスライムが触手を伸ばしてくる。僕は全力で結界を展開し、うねうねと迫ってくる触手を大きく弾いた。

 安心する暇もなく、そのまま2本目、3本目と触手が伸びてくる。僕はその度に結界に魔力を送って、確実に触手を防いでいった。

 そうこうしているうちに、自由落下をしていた僕たちは本体の近くに到達してしまう。

 下はすべてが巨大スライムで埋まっている。このままだと敵の胃袋に自ら直接入っていくようなものだ。

 防御だけでは逃げきれない。それが分かっている僕は核のない部分の肉に狙いを定め、今できる最大級の攻撃魔法を展開した。

 ───ホーリークロス!!

 巨大スライムの一部がバツンと音を立てて抉れ飛ぶ。

 ───もうひとつ、ホーリークロス!!

 修復が始まる前に2つ目の魔法を叩き込み、開いた穴をさらに深く大きく広げてやる。

 巨大スライムの体は危惧していたよりも肉厚じゃなかった。ちょうど今の僕と同じように、アメーバ状となって縦穴の下に張り付いていた。

 2発の攻撃魔法で完全に体を貫通したことで、スライムの体に塞がれていた本当の地面が見えてくる。

 鬱蒼と茂る草。薄ぼんやりとした明かりに照らされた空間。とても広く、まるで僕がいた秘密の部屋を数十倍に拡大したような場所。

 周囲の地形を把握しながら、草むらの中に着地する。僕の体が核ごと女の子の下敷きになったけれど、風竜の助けもあってかそれほどのダメージはない。

 でもまだまだ安心できない。

 上を見ると僕に大穴を開けられた巨大スライムが、体を修復させながらこちらに降りようとしていた。

 巨大質量のスライムが滝のように落ちてくる。下手な対応をしたら、すぐに僕らは呑み込まれてしまうだろう。

 僕は全力で結界を張って、巨大スライムの雪崩に飲み込まれまいとした。ドラゴンのウロコも危機を感じたのか、先程よりも強力な風を巻き起こしてアシストしてくれる。

 轟轟ごうごう。ものすごい音を立てながら、巨大スライムの体が周囲を取り囲んでいく。

 結界と風に阻まれたスライムの体は、その部分だけぽっかりと穴を開けてドーナツのようになった。僕らの抵抗がなくなれば、穴はたちまち塞がってしまうだろう。

 現に周囲のスライムの肉はだんだんと高く囲むように迫ってきている。

 このままだとじり貧になる。

 それが分かっている僕は、最大出力で結界を維持しながらも、密かに練り上げていた魔法を放った。

 ───ホーリーランス!!

 先程のホーリークロスとは違い、ホーリーランスは一点突破の攻撃魔法だ。広範囲を吹き飛ばす事はできないが、単体の攻撃力はこちらの方が優れている。

 名前の通り槍のように真っすぐに伸びた光が、巨大スライムの核のひとつを貫いた。音こそ聞こえないが、パキンッ!とヒビが入ったのが遠目でも分かる。

 ───まずはひとつ。

 巨大スライムが動揺するようにざわりと蠢く。目に見える核の数は全部で8つ。ひとつは今落としたので、残りは7つ。その中のどれかが本命だ。

 スライムの核は本体の機能の大部分を担う『メイン核』と、魔力を貯蔵したり身体機能を拡張強化する為の『サブ核』に分かれている。通常のスライムはメイン核すら目で見えないほど小さいのだが、強くなればなるほど核も大きく成長し数も増えていく。

 このスライムはメイン核とサブ核を同じくらいの大きさに育てているようだ。見た目で違いが分からなかったので、初撃はほとんど勘だった。

 きっと次の攻撃からは警戒されるだろう。けれどやりようはいくらでもある。巨大スライムの核を破壊できると分かったことで、僕の心に余裕が生まれていた。

 チラリと草が生えた地面と、目の前の巨大なスライムの姿を見る。

 恐らく目の前の巨大スライムはこのダンジョンのボスモンスターだ。という事はおっさん冒険者がくれた情報が正確なら、ボス部屋には女の子が探し求めていたエリク草が生えている。これはある意味チャンスでもある。

 このまま核を攻撃して巨大スライムを撃破する。そうして後でゆっくりと女の子にエリク草を探してもらう。それが一番安全で、確実な方法だ。

 ───僕ならできる。

 勇者としての経験と自信。それが僕の判断を後押ししていた。

 核を貫かれた巨大スライムがうねうねと蠢いている。やはり警戒しているのか、僕らを取り囲んだ肉はほんの少しだけ後退していた。

 いっそこのままどこかへ逃げてくれても構わなかったが、そうはいかないらしい。巨大スライムは蠢くのを止めると、体の中の7つの核を移動させ始めた。

 素早く動く核は、まるで四方に飛び散る流星のようだ。正体を知らなければ綺麗な景色だと呑気に眺めていられたかもしれない。

 僕は核の動きを注意深く観察した。よく見るとバラバラに動いているように見せかけて、前に出てきたものと奥に引っ込んだものとに分かれている。

 攻撃に対処しようとするあまり、むしろ分かりやすく標的を絞ってくれた。僕は間髪入れず、奥に移動した核に向かって攻撃魔法を放った。

 ───ホーリーランス!

 狙いたがわず真っすぐに、魔法の光が核に向かって突き進む。

 メインか、サブか。どちらにしろ核をもうひとつ破壊できる。そう確信する。

 けれど次の瞬間、まったく予想していなかった出来事が起こった。

 巨大スライムから魔力が迸ったかと思うと、狙った核の前に一瞬で結界が形成された。

 僕のよりも小さく狭く、その分防御力が高い結界だ。

 光の槍が角度をずらされてそのまま流れていく。肉の一部は吹き飛んだけれど、狙った核は傷ひとつも付いた様子はない。

 ───うそだろ。そのナリで聖魔法を使うのか。

 驚きながらも、僕は先ほどのおっさん冒険者の言葉を思い出していた。

 この迷宮にいるボススライムは、そんじょそこらのスライムとは違う。素早く動いて、魔法を使い、頭もいい。

 確かにきちんと聞いていたのに、僕はせっかく入手した情報を軽くみていた。

 動揺しようとする心の動きをぐっとこらえる。落ち込むのは後でいい。今は巨大スライムの脅威度を上方修正しつつ、同時に戦い方をほんの少し変えなければいけない。

 勇者時代の僕ならやりようはいくらでもあった。他の大規模魔法で吹き飛ばすのでも、自分にバフをかけてひたすら攻撃し続けるのでも、攻撃手段は多岐にわたっていた。けれど今の自分の体はあまりに小さくて、聖魔法くらいしか攻撃手段がない。

 逆に言えば、最上級の攻撃魔法…ホーリーランスは通用する。相手がわざわざ結界を出してきたのがその証拠だ。

 なら相手の結界を壊すかすり抜けるかして、確実にホーリーランスを当てていけばいい。

 僕は複数の攻撃魔法を準備し始めた。

 結界を強化している分の魔力をすべて攻撃に回して、魔法を作っていく。同時により無防備になった女の子を守る為に、胸の上に陣取って攻撃にすぐ対処できるようにしておいた。

 結界が弱ったことでチャンスだと思ったのか、巨大スライムの動きが変わる。後退していた肉がぴたりと止まり、もう一度こちらに迫ってくる。期待通りの動きだ。

 大波のように波打ち、飲み込もうとしてくる巨大スライム。僕はスライムの肉が結界に触れる前に、用意していた攻撃魔法を同時に放った。

 ───ホーリーランス!!

 光の洪水が起きる。

 あらゆる角度から出現した光の槍が、四方八方から巨大スライムの肉を貫いていった。

 その数はざっと十以上。はっきり言って、こんな数の攻撃魔法を同時発動できるのは専門の魔法使いでも難しいと思う。勇者時代からのちょっとした自慢だ。

 結果として魔力の大半は使ってしまったが、お釣りが来るくらいの成果があった。

 残り7つの核のうち、3つの核を破壊することに成功した。あえて前の方のサブ核を中心に狙ったのも良かったのかもしれない。

 巨大スライムは僕とは違い、同時に複数の魔法を発動するのは苦手のようだ。大量のホーリーランスを放った時に、後ろの方の核だけを守っていた。それも結界が形成されたのは2つだけだ。

 2つの内、どちらかがメイン核だ。

 余力が残っている段階で標的を絞れたことは大きい。半分に減ったギラギラと輝く核を見ながら、もうひと踏ん張りだと気合を入れる。

 これから先は今までのように簡単に攻撃が通らないかもしれない。けれど少しずつでも着実に核を壊していけば巨大スライムの力は落ちていくし、うまくメイン核を落とせたらそれだけで勝利できる。

 ───次は守りを固めて、隙を見て核を狙う。

 これからの方針が決まったところで、体の下からうめくような声が聞こえてきた。

「うぅ…」

 ───え?

 思わず女の子に意識を向けると、くったりと力を失ったまま動かない彼女の姿があった。起きた訳ではないと知って、ホッと息をつく。

 頑張り屋で勇敢な女の子ではあるが、いきなり目の前に巨大スライムがいたらきっと混乱してしまう。もう少しだけ、できれば巨大スライムを倒すまで眠っていて欲しい。

 ───彼女を怖がらせないためにも、早くボスを倒さなくちゃ。

 僕は彼女の眠りを邪魔しないよう体の上から降りると、巨大スライムをジッと注視した

 少し嵩は減ったとは言え、相変わらず肉の壁は周りを取り囲んでいる。ついでに触手を繰り出してはこちらに手を出そうとしているので、その度に結界を強化して触手を叩き落としてやった。

 今は相手も慎重になっているので、先ほどと同じ攻撃をしても防がれる可能性は高い。けれどこうして防御していれば、そのうち攻撃のチャンスが生まれるはずだ。

 巨大スライム相手に神経を集中していた僕は、今の段階で彼女を起こすつもりはなかった。

 なので。

「ううん…」

 女の子が本格的に身じろぎした時、僕の心はギクリと冷汗をかいていた。

「…なんか、かぜ、つよい…?」

 眠っていてほしい、という僕の願いとは裏腹に、彼女はあっけなく目を覚ました。

 起きたばかりの彼女はまだぼんやりとしていて、ドラゴンのウロコの効果で風が強く吹いているのを不思議がっている様子だ。

 何度か首を振って、目をこすって。そうしている内に自分が草の上に座っている事に気付いたようで、この状況にはそぐわない嬉しそうな声をあげた。

「あ、草…!」

 幸か不幸か。生えている草に目が行っている彼女はまだ巨大スライムに気付いていない。きょろきょろと地面を見回している。

 僕はこちらに手を出そうとする触手を結界で弾きながら、四つん這いになってエリク草を探そうとする彼女を止めに入った。具体的には目の前でポンと跳ねて、注意を逸らそうとした。

 ───結界の範囲から外れたらダメだよ。そのままでいて!

「スライムさん?こんなに草が……きゃあっ!」

 女の子が悲鳴をあげる。僕はようやく巨大スライムに気付いてくれたと思い、硬直したように動けなくなった彼女を背に庇った。

 縮こまって動けなくなったなら都合がいい。僕は励ますようにさらにポン、と小さく跳んだ。

 ───大丈夫。僕があんなデカブツやっつけてやる。

 心なしか先程よりも巨大スライムの挙動が活発化しているように見える。動いている女の子を見て旨そうな餌だと思っているのかもしれない。

 そうはさせない。僕は柔らかくて温かい安寧の場所を守るために───その場所を提供してくれる大切な女の子を守るために───改めて巨大スライムに対峙した。

「ひ、ひゃあぁ…っ!」

 女の子がふたたび悲鳴をあげる。ムリもない。活発化した巨大スライムからの攻撃は、先程よりも激しくなっている。

 僕はひとつも漏れのないように巨大スライムの攻撃を結界で弾きながら、反撃の隙を狙い続けた。

 魔力に限りがある以上、もうホーリーランスの連打はできない。その代わり、火力を上げて着実に当てていく。

 練り上げた魔力を余分に込めれば、その分魔法の威力は上がっていく。

 代わりに繊細な魔力のコントロールが必要になるのだが、僕ならそんじょそこらの魔法使いのように暴発するようなヘマはしない。現に今までの魔法だって威力を上方修正していた。

 ───今度はもっとギリギリを攻める。大丈夫、僕ならできる。

 背中にいる女の子のためにもと、僕は自分を鼓舞して魔力を高めていた。

「いやぁっ!」

 その女の子は、いまだに悲鳴を上げていた。

「これ、スライムなのッ?や…やだぁっ!」

 迷宮での勇敢な彼女とは違う様子に、ほんの少し違和感を覚える。目の前の恐怖と言うよりも、もっと切羽詰まったものが込められているような気がする。

 今は戦闘中で、敵から完全に目を離すのは危険だ。それは十分に分かっている。

 けれど僕はどうしても後ろが気になって仕方なかった。今見なければ後悔する。そんな予感すらあった。

 ───ほんの少しだけ…。

 とうとう我慢できず振り向くと、僕は目に飛び込んできた光景に愕然とした。

「やだやだ!あっち行って!ひゃあ…っ!」

 安全なはずの結界の中にスライムの一部が侵入してきている。

 それは女の子の体に張り付き、恐ろしい攻撃を仕掛けていた。服の端からじゅうじゅうと煙が噴いていて、すでに表面の繊維が溶けかけている状態だ。

 彼女は必死になってスライムを掴もうとしているが、粘体であるスライム相手ではどうしようもない。指がすり抜けてしまって、半ばパニックに陥っている。

 ドラゴンのウロコもあまりに密着している相手では効果が薄いようだった。どれだけ風が強くなろうと、へばりついたスライムの体を取り除くことが出来ずにいる。

 ───大丈夫!?くそ、ちょっと待ってて!

 咄嗟にホーリーランス用の魔力をほどいて、結界内にもうひとつの結界を作る。彼女の体にぴったりと重ねて、へばりついたスライムを弾こうとした。

 けれどパチンっ!という音を立てて弾かれたのは、僕が作った結界の方だった。

 ───え?

 呆然としながら、彼女に取りついたスライムを見る。

 スライムが纏う魔力光がチラリと見える。僕とは違う結界の光に、何が起こったのかすぐに分かった。あらかじめ結界を張ることで、後から干渉できないようにしたんだ。

 僕はおっさん冒険者の言っていた「頭が良い」というボススライムへの評価を思い出した。

 所詮はスライムだと低く見積もっていたが、明らかに僕が間違っていた。侮って良い相手じゃなかった。的確にイヤなところを突いてくる。

 たぶん時間にしたら1秒も経っていないだろう。何の打開策も思いつかないまま硬直した僕は、土を掘り、地面から侵入してきたスライムの触手に叩きのめされた。

 ───ッぐぅっ!

 吹き飛ばされながら、自分が犯した過ちを悟る。

 僕は巨大スライムの体を遠ざけようとするあまり、彼女を中心とする広い範囲に結界を展開していた。

 だけど、それだけだった。地面を安全だと思い込んで、下には結界を張っていなかった。そこを突かれたのだ。

「きゃあぁ…っ!」

 ぽとんと僕の体が地面に落ちていく。朦朧とする意識の中、彼女が悲鳴をあげている。

 顔を上げると、安寧の場所だった胸ポケットがボロボロに溶かされていく光景が見えた。

 ───…やめろっ!

 お気に入りの場所を取られた怒りより、彼女が危険に晒されている事に強い恐怖を覚える。このままじゃ、服どころか彼女自身も溶かされてしまう。

 僕はすぐに起き上がり、彼女のそばに近づこうとした。

 けれどその前に、再び巨大スライムの触手が僕に襲い掛かってきた。先ほどよりも大きく、太く、流星のように強い光をひらめかせて。

 ───うそ、9つ目の、核…?

 それは今まで見たどの核よりも大きい光だった。

 同時にバチン、という音を立てて、僕の体は呆気なく地面に伏せた。四散しなかったのが不思議なくらいに強い衝撃だった。

【───まいき、なまいき、な、ちび。ざまあみろ、ひひひ】

 どこからか不快な声が聞こえてくる。

 ───もしかして、スライムの声…?

 返事はなかった。

「スライムさんっ!」

 その代わり、女の子が僕に悲鳴のような声で呼びかけてきた。何とか彼女の方に意識を向けると、頑丈だった衣服が見る影もないほどボロボロになっている。

 そんな状態になっているのに、彼女は顔を歪めて泣きながら、こちらに近づいて来ようとしていた。

 僕はせめて彼女だけでも何とかしようと、もう一度結界を張ってみた。

 ぱちんっという虚しい音を立てて、スライムの結界に弾かれてしまう。

 ───ぁ………。

 力が抜けていく。もしかしたら核にダメージを受けているのかもしれない。

 それでも今張っている結界だけは維持しようと、魔力を送り続ける。

 僕らの周りの結界が解除されたら、途端に巨大スライム本体がうねりを上げて襲ってくる。そうしたらもう助からない。何かの奇跡が起きない限りは、確実に。

【───まそうな、うまそうな、エサ。メスのエサ、ひさしぶり、どうしよう?】

 再びスライムの声が聞こえてきた。僕に話しかけるというよりは、独り言のようだ。

 どうやって女の子を食べるかを考えているのだろうか?その証拠というように、結界に侵入した触手は面白がるように彼女の様子を眺めていた。

「…スライムさん!だいじょうぶ?」

 纏わりつくスライムに苦労しながら、彼女が僕の元までたどり着く。動いたことで衣服はさらに破け、一部は肌が露出している状態だ。

 ───きみこそ、だいじょうぶ?ごめん、僕が不甲斐ないから…。

 もう形を丸く保つこともできない。僕はデロンとした不定形のまま、小さい触手を彼女にのばした。

 彼女も手を伸ばしてくれる。その拍子に、かろうじて引っかかっていたドラゴンのウロコが胸ポケットの残骸から転がり落ちた。

 先ほど見せてくれた時とは違い、効果を発揮しているドラゴンのウロコはまばゆい魔力の光を放っている。

 女の子はハッとして辺りを見回した。僕らを取り巻く風は、せめて巨大スライムの本体だけは近づかせまいと頑張っている。

「この風…。エアリアルが守ってくれてたんだ…」

 ポツリと呟いた女の子は、ドラゴンのウロコを大事そうに片手で拾うと、もう片方の手で僕の体を掬いあげた。そのまま僕とドラゴンのウロコの両方をそっと胸に抱きしめる。

 こんな状況にはそぐわない穏やかな仕草に、なんだか嫌な予感がする。

「お姉ちゃん……ごめんね。スライムさんも」

 そう言って、彼女はドラゴンのウロコに魔力を込めると、ぽんと上に放り投げた。

 ───え?

 持ち主の魔力によって方向性を与えられたドラゴンのウロコは、高く高く、巨大なスライムよりも高く僕の体を風で巻きあげていく。

「逃げて!…エアリアルっ、スライムさんを守ってあげて!」

 ───やめて!

 彼女の言葉に悲鳴をあげる。このまま遠くに行けば、結界へ供給する魔力の線が途切れてしまう。

 僕は叫んだが、どれだけ必死になっても彼女には届かない。

 絶望する僕に追い打ちをかけるように、不快な声が響いてきた。

【───めた、きめた。このメスに、こども、うませよう。なまいきな、ちび、おまえはみてろ】

 嘲笑する声と同時に、結界に大きなヒビが入る。

 魔力の供給が途切れ、風のアシストも無くなり、もう結界を維持する事はできなくなった。

 巨大なスライムの体が、雪崩のように彼女へと殺到していく。

 世界がスローモーションのようになる。初めての戦いをした時。強い敵と戦った時。様々な危険と遭遇した時に感じた感覚だ。

 勇者時代にはよくあった。

 けれど、今の僕は勇者時代にも感じたことのない怒りを感じている。

 魔物とも、魔族とも、魔王とも。

 どんな敵とも戦った時にはなかった感情が、僕を支配している。

 子どもを生ませる、とスライムは言った。

 おまえは見ていろ、とスライムは言った。

 僕の頭に、この迷宮で行われた数々の非道が思い浮かぶ。

 先ほどまで凛としていた冒険者が、泣き叫ぶ姿。

 心が折れる者。

 中毒になる者。

 どちらにしても、今までの人間性は破壊されることになる。その場では正気に見えたとしても、その人の中での何かが曲がり、狂っていく。

 僕と一緒にいてくれた、柔らかで、温かくて、強くて、優しくて…。そんな女の子が壊されることになる。

 巨大スライムの雪崩はまだ彼女の体に届いていない。時間精度が高まり過ぎて、まるで世界が止まっているように見える。

 けれど、何もしないでいれば絶対に、いつかは終わりがやってくる。

 この世の終わりのような、絶望がくる。

 ───そんなの絶対に、許さない。

 怒りにまかせて触手を伸ばす。僕を遠くへ運ぼうとしたドラゴンのウロコを掴み、躊躇もなく体の中へと引き入れる。本能のままの行動だった。

 ドラゴンのウロコは不思議となんの抵抗もなく、一瞬で僕の体に溶けていく。

 体が熱い。

 ダメージを受けた核が急速に修復されていく。

 同時に内側から、抑えきれないほどの大きな力が膨らんでいく。

 ドラゴンのウロコに込められた強大な竜の力が、小さな体の中で荒れ狂おうとしている。

 頭の中に、強烈なビジョンが浮かび上がった。

 このまま体を大きくするか、それとも力を高めるか。次の段階への進化の選択肢のようだった。

 この荒れ狂う竜の力を使えば、すぐに僕は次の段階へ成長できる。

 でも足りない。どちらを選んでも、この僕の怒りを表現するだけの力には足りない。

 僕は悩むこともせず、どちらも選ばないという選択を取った。

 その代わり。進化の先の、先の、先。順当に進化すればいつかは到達するだろう選択肢を選んだ。

 ─── 一瞬だけでいい。

 ───今はとにかく、あのスライムをぶっ倒せるだけの力が欲しい!!

 僕の選択によって、風竜の力が指向性を持って膨れ上がる。進化の先の、先の、先。本来の僕では届きもしない頂きへと向かっていく。

 ───風のスキルツリー、全開放。

 ───魔力増大。

 ───体力増強。

 ───下位核形成。

 ───■■化、完了。

「───」

 一瞬だけのドーピングをし終えた僕は、地面めがけて突っ込んでいった。

 スローモーションの世界は続く。

 地上では女の子が恐怖に顔を強張らせながら、それでも巨大スライムに抵抗しようとナイフを構えている。

 対して巨大スライムは、大津波となって今にも覆いかぶさろうとしている。僕が地上に着くまでの間に、彼女は吞み込まれてしまうだろう。

 そうはさせない。僕は解放されたばかりの風の魔法を地に放った。

 ───ウィンドカッター!

 魔力によって底上げされた刃が僕よりも早く地上に届き、スライムの体を両断する。

 粘体であるスライムの体はすぐに元通りになってしまう。けれど相手の勢いを殺す事には成功した。

 僅かばかりの時間を稼いだことによって、結界の有効範囲内に彼女が入る。僕はすかさず結界をかけ、彼女の体にへばりついたスライムの触手をひとつ残らず弾き飛ばした。

 欠片となったスライムが遅ればせながら結界を張るが、その頃にはもう彼女は自由の身になっている。僕はようやく目を丸くさせようとしている彼女の姿を視界に収めつつ、何重にも自分にバフを掛けていった。

 防御系のバフは捨てて、すべて攻撃に回していく。体が壊れるギリギリまで魔力を込めて、それでもまだ不思議と余裕がある。

 これならいける。

 僕は魔力で固めた空気を踏みしめると、今まで以上の速度で巨大スライムへ突進した。

 おそらくは、このまま突っ込むだけで巨大スライムの体をズタズタにできる。

 今の僕は結界と風の障壁を同時に身にまとっている。ドラゴンのウロコのように防御のための風ではなく、攻撃に特化した風の刃だ。剥き出しになったミキサーの刃のように、触れるものを引き裂いていくだろう。

 それでも確実に仕留められる保障はない。こんなにも膨れ上がった肉なら、直接核を潰す方がいい。それも、できれば物理がいい。

 ───ウィンドブレイド。

 僕は最後に魔法剣を生成した。

 この剣は魔法攻撃だけではなく物理攻撃もできる優れものだ。大きさも厚みも鋭さも、術者の意思で自由自在に変えられる。勇者時代にはよく世話になった。

 すべてのピースを揃い終えて、後はただ攻撃するだけだ。

【───おう、さま?】

 攻撃の直前、スライムの声が脳裏に届いた。驚いているような、戸惑っているような、不思議な声の響きだった。

 ───命乞いしても、もう止まらないよ。

 ロケットのように加速した僕は、夜空の星のような核を次々と墜としていった。

 一連、二連、三連、四連───。

 五連目、女の子を人質に取ろうとしていた触手を切り裂き、最後に残っていた核を破壊する。

【───おう…】

 壊された核は、最後に強く輝いてボロボロと崩れていった。

 もう巨大スライムの声は聞こえない。代わりに聞こえてくるのは四散した巨大スライムが降り注ぐ音だ。ザァーッと雨のように黒い雫が降りかかり、地面にしみ込んで消えていく。

 僕はようやく降りてきた地面に足をつけながら、ほっとしたように息をついた。

 守りたかった女の子は怪我もなく、目をまん丸にしたまま僕の腕に抱かれている。

「あ、あ、あの…?」

「無事でよかった」

 久しぶりに自分の肉声を聞く。何だか慣れ親しんだ声とは違うふうに聞こえるけれど、久しく聞いていなかったので多少の違和感は仕方ないのかもしれない。

 女の子は真っ赤な顔になって、困ったように縮こまっている。

 スライム視点ではない女の子は華奢で、小さくて、とても可愛く見える。もっとよく見ようと顔を近づけると、「ひゃあぁ…っ」と小動物のような鳴き声をあげたあとにぐったりとしてしまった。

「きみ…?」

 呼びかけてもぐったりしたまま、どうやら気絶しているようだ。よく見ると呼吸は荒く、汗もかいて苦しそうな様子だった。

 ───もしかして、スライムの触手に何かされた…?

 よく考えたらここは淫獄迷宮なので、ボスである巨大スライムだって媚薬系のスキルか魔法を使えた可能性がある。

 なら今の彼女は、強制的に発情状態に陥っているのかもしれない。

 そう思い至った瞬間。頭がかーっと熱くなって、体温が一気に上がっていった。綺麗なお姉さんに客引きされた時よりも、ずっと心臓がドキドキしている。

 なにせ発情している……かもしれない、女の子が腕の中にいるのである。それも気になっている女の子だ。さらにスライムに服を溶かされてほぼ下着姿の女の子だ。こんなの冷静になる方がムリだ。

 そもそも僕の格好もまずい。巨大スライムと戦っていたのでそれどころではなかったが、よく考えたら何も身にまとっていない全裸だった。つまりつい先ほどまでの僕は女の子の前で裸で大立ち回りしていた事になる。

 ───え、どうしよう。

 勇者時代でも感じなかった感情が次々と襲い掛かってくる。

 心配と。

 興奮と。

 恥ずかしさと。

 まったく違うそれぞれの心の動きに混乱してしまい、僕は何もできないまま棒立ちになった。

 理性は彼女に状態異常回復をかけた方がいいと呼びかけている。

 本能はいまの彼女の状態をもっと詳しく調べたいと叫んでいる。

 感情は自分の間抜けな姿を彼女に見られたくないと訴えている。

 どれもが同じくらいの強さで、僕に同時に命令してくる。結果的に何を優先すべきか判断できず、時間だけが無駄に流れていく。

 そうしてあらゆる意味で貴重な機会を逃したまま。

 ───■■化、終了…。

 僕のボーナスタイムは終了した。