【迷宮在住の野良スライム、ひょんなことから新米冒険者の胸ポケットにお引っ越しする事になる。───スライムに生まれ変わった元勇者の僕が可愛い女の子冒険者に拾われちゃった!?表で可愛がられ裏では無双する充実のスライム生活が始まる!───(その3)】

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頂いたファンアートです(ありがとうございます!)

「誰かいるのか?」

 外見だけ見れば歴戦の冒険者!と言った感じのおっさん冒険者は、僕たちのいる物陰を見据えるとどっしりした声で呼びかけてきた。

 とても先ほどまで怪しい声を上げていた人物とは思えない。とは言えそれなりに経験を積んでいる冒険者なので、彼の気迫っぷりは一応本物だ。

 女の子はおっさん冒険者の声にあたふたと一通り慌てると、「こ、こんにちは…!」と挨拶をしながら、そうっと物陰から顔を出した。緊張した様子で、さらにぺこりとお辞儀している。

 可憐な女の子の登場に、おっさん冒険者は面食らっている。まぁ無理もないと思う。

 僕は女の子のポケットの中で、注意深くおっさん冒険者の動向を監視していた。

 基本的に冒険者は総じてモンスターを倒すという大目標があるので、冒険者同士の戦いは禁止されている。

 だが中には相手の名声を奪うためだったり、貴重なアイテムを奪うためだったり、相手の尊厳を奪うためだったり……。そんな私利私欲のために他の冒険者を襲う輩も出てくる。

 特にここは淫獄迷宮なので、若くて可愛い初心者冒険者を前にして理性を飛ばす可能性は普通にある。

 ───もし彼女に指一本でも触れようとしたら、どぎつい聖魔法をお見舞いしてやるぞ!

 僕は気合十分だった。

「どうしてこんなところに女の子が?いくつか質問してもいいか?」

「え、は、はい」

 けれどそんな僕の気合とは裏腹に、おっさん冒険者は賢者のように冷静だった。

「そうだな、まずは…」

 どこから来たのか、目的は、装備は、他の仲間は、物資の残りは。そんな冒険者としての真面目な質問が次々におっさん冒険者の口から出てくる。

 下世話なスケベ親父ならスリーサイズとか下着の色とかを聞きそうなものなのに、そんなそぶりは一切ない。

 最近の彼は頭がすっかり茹だっているようだったが、腐っても中級冒険者だったと言うことだろう。よくよく思い返してみれば彼はパーティで前衛役を務めていた人物である。素人同然な出で立ちをしている少女に対して劣情よりも心配が先に立ったようだ。

「は、はい。えっと…」

 いかにも頼りがいのありそうな冒険者を相手に、女の子は所々で詰まりながらも素直に質問に答えていった。

 近くの村からこの迷宮へ来て、目的は姉を直す薬の材料の採取。装備は大ぶりのナイフと丈夫な生地の服で、他の仲間はいない。物資の残りは約一日分。

 聞いているだけでこちらも不安になってくる貧弱具合だ。実際は元勇者の僕が胸ポケットにいるので安心してくれていいのだが、それを聞いておっさん冒険者は苦い顔つきになった。

 正直さっさと帰れと怒鳴られても仕方ない状況だ。けれどおっさん冒険者は驚くほど親切に対応してくれた。外見に似合わず、随分とお人好しだったらしい。

「お嬢ちゃんの探している薬の材料は、もしかして『エリク草』か?」

「そうです!知ってますか?」

 言い当てたおっさん冒険者に女の子が驚いた声を出す。同時に僕も驚いてしまう。

 エリク草は、確かエリクサーの原料になる植物だ。エリクサーは回復役として最上位の性能を誇り、勇者時代の僕も数えるほどしか使ったことがない。もちろん超のつく高級品だ。

 そんな貴重な薬の材料であるエリク草も当然のように貴重品だ。道具屋でも売っていないので、僕も現物を見た事はない。

 手に入りづらいというのも納得の代物だった。むしろ女の子の家族はどんな手段で継続的に手に入れているのか知りたいくらいだ。

 僕は驚きつつも、同時にだんだんと嫌な予感がしてきた。ここは難易度的には中級のダンジョンになる。貴重なアイテムがごろごろしているような場所じゃない。

 おっさん冒険者の話は続く。

「実物は見た事ないが、以前ここの迷宮を何人かで攻略してたヤツの話を聞いたことがある。そいつは実際に採取したようだ」

「本当ですか!?」

「何でも最奥の部屋にポツポツと生えていたそうだ。やたらと広い場所で、そこには草がわんさか生い茂っていたらしい。生憎そいつの一行は最奥に潜んでいた超級の魔物に勝てずに逃げ帰ったそうだが、何とか生えているエリク草だけは持ってくることができたそうだ」

 嫌な予感が的中した。

 貴重な薬の材料ともなれば、そうほいほいと手に入るものではない。相当な労力が必要になる。

 それこそダンジョンのボスを攻略するくらいの労力だ。

 僕は納得して胸ポケットの中でほよん…と頷いていたのだが、最奥…ボス部屋と聞いた女の子が「ええっ!」と驚いた声をあげた。はずみで胸がぽいんっと僕の体を押し上げてくる。

「さ、最奥の部屋…!?超級の魔物…!?」

「言っちゃなんだがお勧めしない。この場所からまだまだ深く潜って行かなきゃならないし、相当な運と実力がないとたどり着くことさえ出来ないだろう」

「そ、そんな…」

 女の子はがっかりしているが、まぁそれは当然だろうと思う。何なら僕でさえこのダンジョンのボス部屋に到達したことはなかったりする。

 どれだけ活動範囲を広げてもボス部屋らしい場所を発見できなかったのだ。恐らくかなり奥の方にあるんだろう。

 ───僕の秘密部屋なら何とか案内できそうだけど、ボス部屋じゃないしな…。

 なにせ秘密部屋はボス部屋と同じで広くて草がわさわさ生えている。違うのはボスモンスターがいるかいないか、あとは貴重なエリク草が生えているかいないかの違いくらいだ。

 …わりと致命的な違いじゃないだろうか。ちょっとがっかりしたので、くたっと力を抜いて女の子の胸にしな垂れかかってみる。この曲線美、グッドだね。

 とは言え、女の子の探し物がこのダンジョンに存在している、という情報を得ることが出来ただけでもかなりの前進には違いない。

 いざとなれば僕ひとりだけでサッと行って帰って来てもいい。ボス部屋の場所さえ分かればすぐにでもやれる。

 僕がボス部屋をシュシュッ!と速攻で攻略する脳内シミュレーションをしていると、女の子は泣きそうになりながらおっさん冒険者に質問していた。

「で、でも倒さなくてもエリク草を手に入れることはできるんですよね…?超級の魔物から逃げられる速さがあれば、で、できるんですよね…?」

 すがるような声に、すぐさま何とかしてやりたくなる。けれどおっさん冒険者は無謀な挑戦を諫めようと考えたらしく───実際それは正しい判断ではある───女の子を諦めさせるために更に貴重なボスの情報もくれた。

「馬鹿なことは考えるな、超級の魔物はとてつもない強さのスライムだ。目に見えない速さで襲って来るから、お嬢ちゃんじゃ逃げられやしないぞ」

 すごく強いスライム。同種の存在がボスだという事に、僕はビックリしていた。

「す、スライムが…強いんですか?熟練の冒険者さんでも逃げられないくらいに?」

 女の子もビックリしている。ただし、僕とは驚きの内容が異なるようだ。無理もない。基本的にスライムは初心者冒険者にとっては厄介な相手でも、熟練の冒険者にとってはいい経験値稼ぎの相手でしかないからだ。

 けれどスライムの進化先は千差万別だ。中には迷宮のボスになるような規格外に強くなったスライムがいても不思議じゃない。

 ───まぁ、この僕には負けるだろうけど!

 なにせ魔王と単独で戦ったこともある元勇者である。僕は女の子にアピールするように胸ポケットの中でえっへんと反り返ってみた。

「この迷宮の最奥の魔物はそんじょそこらのスライムじゃない。核なんか目に見えるほど大きくて、魔力光で常にキラキラ輝いているらしい」

 ───いや、僕の核の方が綺麗で大きいよ、たぶん。

 ボスを褒めるおっさんの言葉に対抗するように、さらにえっへんと反り返ってみる。

「攻撃方法も普通のスライムとは一線を画しているそうだ。魔法を使ったりもするらしい」

 ───僕がどれだけ魔法で戦っていたと思ってるの、僕の方が魔力の扱いは上手だよ、きっと。

 えっへん。さらにさらに反り返ってみる。

「頭もいいそうだ。人の言葉が分かるらしくて、声に出すと作戦が筒抜けになるらしい」

 ───さすがにスライムと頭の良さを競う気はないけど、まぁ僕の圧勝だよね。普通にね。

 えっへん。さらにさらにさらに反り返ってみる。

 もうこれ以上反り返るべき所はない、というくらいに反り返っていると、いつの間にか体がブーメランのような形になっていた。さすがにこの形だとペットスライムのふりは難しいので、密かにぷるん!とまん丸ボディに戻っておく。

 おっさん冒険者はまだ見ぬボススライムのすごさを語っているけれど、聞けば聞くほど僕に負ける要素はないように思える。

 女の子はしょんぼりしているけれど、僕はまったく問題ないと楽観視していた。

「そもそもここは若いお嬢ちゃんが来るような迷宮じゃない。悪い事は言わないから、戻った方がいい」

 おっさん冒険者はきっぱりとそう締めくくった。まったくの正論だ。反論できない女の子は更にしょんぼりしてしまった。

 けれど「料金次第だが、村まで護衛してやるか?」というおっさん冒険者の優しい申し出に、女の子は少し考えてゆっくりと首を振った。

「色々と、ありがとうございます。でももう少しだけ周辺を探索しようと思います。エリク草じゃないけど、大きな草があったんです。もしかしたら、エリク草も最奥の部屋以外で見つかるかもしれません」

「草が生えてたのか、珍しいな」

「スライムさんが見つけてくれて…。あ、そうだ」

 そう言うと、女の子は胸ポケットで休んでいた僕をそっと掴んで手のひらに乗せた。指先で優しく撫でられたので、体をぷるぷるさせて返事をする。

「このスライムさん。誰かのペットだと思うんです。ご存じじゃないですか?」

「おお、綺麗なペットスライムだな。まだ小さいが、色も形もいい」

 おっさん冒険者がいきなりゴツイ指先で触ろうとしてきたので、ぴょっ!と身をひるがえして避けてみた。そのままぴょっ!ぴょっ!と跳ね続けて、まるで猫のやんのかステップのように威嚇してやる。

 ───気軽に僕に触ろうとしないでくれる?こちとら元勇者なんだけど。

 しばらくぴょっ!ぴょっ!と威嚇を繰り返していると、触らせる気がないと知ったおっさんは手を引っ込めて苦笑した。

「うーん、多分上級冒険者のペットじゃないか。この大きいの、宝石だろ」

「じょ、じょうきゅう冒険者…。ほうせき…」

「どちらにしろ俺のペットじゃないな。後でギルドで探してみるといい」

「そうします」

「で、本当にもう少し残るのか?何か無事でいられる保証でもあるのか」

「保証…。あ、ひとつあります。さっき言いそびれてたんですけど…」

 そう言うと、女の子はもうひとつの胸ポケットから小さな袋を取り出した。僕の隣に袋を置いて、片手で器用に口を開ける。

 好奇心のままににょいっと覗き込むと、中には綺麗な青いウロコが入っていた。なぜ気付かなかったのかと思うくらい、ものすごい魔力が込められている。

「ドラゴンのウロコです。知り合いの竜から特別に分けてもらったお守りです」

 『ドラゴンのウロコ』。生え変わった時に落ちた普通の鱗も一応そう呼ばれることもあるが、アイテム名として定着しているのは持ち主の竜が自ら抜き取った特別な鱗の方だ。

 場合によっては死んだ持ち主を復活させるほど強い効力を持つ事もある。もちろん、超レアアイテムだ。

 そんなすごいアイテムを持っていたなんて、僕は女の子がどういう環境で育ったのかますます興味が湧いてきた。

 おっさん冒険者もあっけに取られたような目で見ている。

「知り合いの竜?何だかすごい話だが、青い鱗なら水竜か」

「いいえ、風竜です。体色は白いんですけど、特別に色の違う鱗を守りにくれたんです」

「ほう、そりゃまた…」

 すごい、と感心したようなおっさん冒険者の言葉が続く。

 女の子は何でもないように言っているが、本当にものすごい話である。

 そもそも竜は基本となる体色が決まっていて、まだら模様の竜はほぼいないと言っていい。けれど差し色のように所々色が違うウロコがあって、それは強い魔力が宿りやすい特別な鱗になる。当然、滅多に人にあげるものではない。

 勇者時代の僕も1枚だけ持っていた。退治依頼をされた子どもの黒竜をこっそり助けたことがあり、その時に色々とあってもらう事ができたのだ。

 今はもちろん持っていないが、あのウロコも綺麗な青色だった。ちょうど僕の核の色に近いように思う。とてもキラキラしていて、綺麗だった。

 ───【ファラクト】、元気にしてるかな。

 僕が助けて名前を付けた黒竜を思い出しながら、僕は思い出の中の鱗と同じように輝いている青いウロコをジッと見つめた。


 あれから更にしばらくして、僕は上機嫌で女の子の胸ポケットに収まっていた。

 おっさん冒険者はもういない。彼女の示したお守りに納得して、無理はするなと忠告したあとに帰って行った。

「ごめんねスライムさん、もう少しだけ探索させて。帰ったら、飼い主さんを一緒に探そうね」

 彼女は瓦礫の隙間を見ながら、申し訳なさそうにポケットの上から僕を撫でてくれる。

 気にしないで!というように、僕はぷるるんと彼女の指に丸い体を押し付けた。

 実は彼女はドラゴンのウロコだけではなく、もうひとつのお守りがあるとおっさん冒険者に教えていた。

 何を隠そうこの僕だ。

 彼女はためらいなく言い切った。このスライムさんがいなかったら、ドラゴンのウロコがあってもすぐに逃げ帰っていたかもしれない。彼がいると勇気と力が湧いてくる。だから彼がいる間だけ、もう少し頑張って探索していたい……と。

 僕はその言葉を聞いてモジモジしてしまった。まるで控えめでいじらしい愛の告白のように思えて、正直めちゃくちゃキュンと来た。

 そんな事を可愛い女の子に言われて嬉しく思わない男がいるだろうか?いや、いない。

 という訳で、僕は先にも増して気合を入れて聖魔法で保護しまくっている。

 色々なバフをかけてみて思ったのは、やっぱり彼女は聖魔法の効きが良いという事だ。先ほどまでは分からなかったが、今なら分かる。たぶんドラゴンのウロコで魔法の効果が増しているんだろう。

 ドラゴンのウロコに込められた力は1枚1枚それぞれで違う。元々の持ち主である竜の性質、力の強さ、鱗にどれくらい魔力を込めたか、そんなものでもアイテムの効力は変わってくる。

 彼女の話では持ち主の竜とも仲が良いようだし、それなりに大きな力が込められていると見て間違いない。魔法のバフ以外にも、色々な効果が付与されている可能性がある。

 相変わらず先へ続く道を選び続けている勘の良さも、もしかしたらお守りの効力なのかもしれない。

「あんまり遠くには行かないように…。えっと、こっちかな…」

 彼女の探索の仕方は先ほどとは少し変わっていた。どんどん先に行くのではなく、時間をかけてじっくりと周りを見て回っている。きちんと帰る事を念頭に入れているようで、こちらとしては一安心だ。

 ただ探索を丁寧にしようとするあまり、無防備になっているのが困りものだ。今も瓦礫の前で四つん這いになって隙間を確認しようとしている。

 胸ポケットにいる僕はその影響をもろに受けた。具体的には重力に従った大きな胸が僕に覆いかぶさってきた。ゆさ…っ、と質量のある重くて柔らかい物体に上から伸し掛かられて、僕は思わず幸せの極致を噛みしめてしまう。

 極楽か天国かヴァルハラか…。どちらにしろ僕はいずこへと昇天してしまいそうな意識をつなぎ止めながら、無防備な彼女の代わりに辺りを警戒する事にした。

「ここ、何だか変…。風の流れが違う?」

 女の子はどうしても奥が気になるようで、何度も体勢を変えて頑張って覗き込もうとしている。

 風の流れと言うのは気になるワードだ。勘がいい彼女がこうまで気にしている様子なら、この先に何かがある可能性は高い。

 ───もしかしたら隠し部屋があるのかも。ちょっと待ってて!

 僕は上から覆いかぶさって来る胸を押し上げて胸ポケットから出ようとした。小さな体なら瓦礫の隙間に入れるし、彼女を危険に晒すこともないからだ。

「奥に何か…。うんしょ、と」

 ───え、ちょ、ちょっと…!

 けれど少し遅かったようで、僕が幸せの重みに邪魔されてなかなかポケットから出れないでいるうちに、躊躇なく瓦礫の隙間に手を入れてしまった。

 瓦礫が倒壊すれば手を失うこともある危険な行為だ。僕はぎょっとしながら、急いで彼女に掛けている結界の強度を強くした。

 次の瞬間、ポケットの中からでも分かる強い光が辺りを照らした。

 瓦礫の隙間から漏れ出る強い魔力の光。おそらく、設置されていた魔法陣を彼女が触れた事で何らかの魔法が発動したのだ。

 ダンジョンのものか、冒険者が残したものかは分からない。けれど警戒心は跳ね上がる。僕はさらにいくつかの聖魔法をかけて彼女の守りを強くした。

 同時に急いでポケットから這い出ると、魔法陣めがけて飛び出していった。書かれた呪文を読みとけば発動前に対策が取れるかもしれないし、それが叶わなくてもせめて女の子の盾くらいにはなれる。

 瓦礫の隙間を通り抜けると、溢れんばかりの魔力光に晒される。発動前の魔力の膨張だ。

 間に合わない。

「───きゃあッ!」

 ふわりと体が浮かぶ。いつの間にか床が消滅し、僕らは瓦礫と共に空中に投げ出された。

 内臓(核)が飛び出そうな感覚、そして下から襲ってくる恐ろしいまでの風圧。

 僕は先ほどほんの少しだけ読めた呪文と今の状況を鑑みて、今更ながらにようやく答えを得ることができた。

 ───転移魔法陣か!

 人や物を別の場所へ移動するためのもので、ダンジョンでは割とポピュラーな仕掛けだ。

 レアなアイテムがある隠し部屋に行けたり、ダンジョンの出口へ運んでくれたり。そんな恩恵がある一方で。道を分からなくさせたり、ダンジョンの奥へ強制的に移動させたり。そんな損害を与えることもある。

 今回のケースは明らかに後者だ。常に光が差しているのがダンジョンだと言うのに、下を見るとぽっかりと空いたような暗闇が広がっている。もしかしたらダンジョンは途中で切れて、下は普通の洞窟に続いているのかもしれない。

 なんにせよ恐ろしいほどの長さの縦穴だった。何の対策もなければ死しかない。

 ───淫獄迷宮なのに即死トラップって、難易度調整ミスだろう!

 僕は心の中でわめきながら、何度目か分からない聖魔法を発動した。対象はもちろん女の子だ。

 自分の分は後回しにして女の子を優先する。それが元勇者の心意気なのだ。

「───!───ッ!!」

 女の子がめちゃめちゃに叫んでいる。でも風圧でまったく声が聞こえてこない。僕は彼女の下にゴツゴツとした大岩が突き出ているのを見て、すぐさま行動を開始した。

 ビュウビュウ、風に邪魔されながら、僕は自分の体の一部を女の子に伸ばす。ただ伸ばすだけだと風圧に負けてしまうので、パイルバンカーのように力を込めて射出する。

 風に勢いの大半を殺されながら、なんとか服の端に体が届く。突き出た岩はすぐ下に迫っている。

 そのままぐいと女の子を引っ張り出し、穴の中央へと位置を移動させる。ほぼ同時に突き出た岩のそばを通りすぎ、危ないところだったとヒヤリとする。

「………」

 すでに女の子の意識はない。僕は自分の体にも聖魔法をかけながら、アメーバ状に変化して彼女の体を包み込んだ。

 正直なところ、体積が圧倒的に足りない。理想では自分の核のように彼女の全身を包んで守りたいのに、現実は彼女の体の下に薄いシートのように敷かれているだけだ。

 でも、何もしないよりは遥かにマシだ。僕はすぐにでも来るだろう衝撃後に備えて、ありったけの回復魔法を準備した。

 1秒、2秒、体感で10秒以上落ち続けているのに、まだ底は見えない。おかしい。いくら縦穴が深くても、数キロも続いているとは思えない。

 そこで気付いた。僕以外が発している魔力の存在に。

 女の子のもうひとつの胸ポケットから風の魔力が渦巻いている。ドラゴンのウロコだとすぐに分かった。

 よく考えたらいくら僕が強いと言っても、暴風に晒されながらスライムの小さな体で動けるわけがない。彼女の体まで触手が届いたのも、彼女の体を穴の中央まで移動できたのも、風竜の助けがあったからだ。

 ドラゴンのウロコによって風の勢いが殺されている。きっと落ちている速度も緩やかになっているはずだ。この分なら、想定よりもずっと弱い衝撃で降りられる。

 余裕ができたことで、僕は色々とものを考えるだけのゆとりができた。

 もっと安全に降りるために、岩肌に僕の体を突き立てて速度をさらに遅くするのはどうだろう。一時的に衝撃は来るけれど、結界魔法があれば十分に耐えられる。

 もしくは、ドラゴンのウロコに魔力を込めて更に大きい力を引き出すのはどうだろう。燃料となる魔力さえあれば、守りの力は一時的に増大するはずだ。

 何にせよ、底に着くタイミングを見計らう必要がある。僕はいまだに真っ暗な底を見通せるように、聖魔法で光を作って辺りを照らすことにした。

 風の魔力の範囲外にいくつかの魔力の明かりを作り、すぐに底へと向かわせる。薄ぼんやりと明るい岩肌を照らしながら、光はあっという間に影の底へと到達した。

 けれどおかしなことに、いくら近くで照らしても暗闇が晴れる事はなかった。

 その代わり光を近づけると闇の中にキラキラと輝く星のような何かが見えた。まるで地の底をスクリーンにして夜空が映し出されているようだ。

 見た目だけなら綺麗だが、異様な光景にぞわりと体が総毛立つ。

 ───これ、何かまずい…!

 僕はとっさに岩肌に触手を伸ばして、何とか地の底に落ちるのを防ごうとした。

 同時にドラゴンのウロコにも魔力を送り込む。狙い通りに力を引き出せたようで、僕らをアシストする風の魔力が強くなった。

 でも遅かった。

 最初はあんなに遠かった暗闇が、今は目の前に迫っている。

 そして僕らが近づくのを待っていたかのように、すぐに変化が訪れた。

 地の底の星が、ギラギラと輝き出す。まるで獲物を見つけた肉食獣の目のように。

 地の底の夜空が、ぐにゃぐにゃと蠢き出す。まるで眠っていた動物が目覚めたように。

 ───嘘だろ、こんなの。勇者時代でも見たことない。

 地の底から魔力が噴き上げてくる。

 恐ろしい事に、それは一個の生物だった。

 ギラギラと光る『核』をいくつも内包した、とんでもない大きさのスライムだった。